不確実な世界におけるイノベーションの推進
私たちはVUCAの時代を生きています。VUCAは変動性(volatility)、不確実性(uncertainty)、複雑性(complexity)、曖昧性(ambiguity)の頭文字を取った言葉ですが、昨今の世界情勢を見ても、インフレ、経済の後退、不安定な地政学上の動向、先行きが厳しい人口動態など、VUCAのレベルはかつてないほど高まっていると言えます。実際にビジネスに携わっていると、現代の社会はかつてないほど変化しており、しかも変化のスピードは加速していると感じています。
VUCAの時代は、それ自体が問題なのではありません。変化は強力な触媒となり、新しいアイデア、これまでにない製品やサービスの開発を後押しするからです。しかし一方で、人間は経験したことのない程に不確実で先行きが見えない状況に直面すると、過去の経験に固執し、より保守的になり、考えることを止めてしまう傾向があります。
私が懸念しているのはこの点です。三菱重工グループのCTO(最高技術責任者)として、イノベーションを促し、活性化することがミッションですが、当社グループのような歴史ある大企業が過去の成功体験にしがみつき、これまでの研究開発のやり方に固執していては、現代のVUCAの時代に新たな価値を生み出すことはできないと思います。
トライして、失敗しても、再度トライする
二年前、私たちはこの問題に正面から取り組みました。まず、技術・政治・社会・経済を対象に、顧客の事業を構築--または再構築--するものは何かを考え、120に及ぶメガトレンドを分析しました。各メガトレンドに応じ、担当者自ら課題設定とその解決策を仮説として発案し、単独あるいは複数の研究開発機能を組み合わせて、何百ものアジャイルに動ける小規模の研究チームを結成しました。各々のチームは3ヶ月の期間と決められた予算で、仮説アイデアの検証や試作を行います。続いて社内や顧客の前で進捗状況を発表し、自らの仮説アイデアを検証します。その後、必要な場合は軌道修正し、さらに3か月間、同じサイクルを繰り返します。この短期間の仮説検証のプロセスを繰り返す仕組みを「ピボット開発」と呼んでいますが、プロセスを繰り返した結果、開始時に想定しなかった方向性を見出すこともあれば、実用化につながる成果を生むこともあります。想定外の結果は、いわゆる失敗ではなく、成功への手段の絞り込み、もしくは、新たな方向への展開とみなされ、貴重な経験と捉えることができます。
この新しいアプローチを通じて、私たちは当初の予想を上回る成果を生むことができました。24か月で1,000以上の仮説検証プロセスを繰り返した結果、39のタスクフォースが結成され、18の新たな大規模プロジェクトが動き出しました。その中には温室効果ガス削減に寄与する消費電力の少ないマイクロデータセンターや電気自動車の使用済みバッテリーのエネルギー貯蔵設備への転換などがあります。また、成田空港近くのショッピングモールでのロボットによる自動バレーパーキングシステムの実証実験など事業化に向けて動き始めた取り組みもあります。
新たなアプローチは有望な成果を生んでいますが、社内のリソースだけでは限りがあります。当社グループではベンチャー企業など他企業や、政府機関、学術機関とのパートナーシップを重視して、「オープンイノベーション」を実践しています。実際、ピボット開発を行った研究チームは外部の力を積極的に活用することで、技術力の幅を広げることに成功しています。現時点で、人工知能や材料化学など、重工業の領域を超える700以上の技術の活用を進めています。
不足している10%を見つける
外部パートナーにとっても当社グループと連携することで、幅広い事業分野に蓄積された技術を活用するなどのメリットを享受できます。実際のところ、私たちはイノベーションに必要な技術の90%を既に社内に保有しており、不足している10%について、外部パートナーとの共創に期待しています。外部パートナーとの連携により、開発期間を数年から数か月に短縮することが可能になるのです。こうした意味において、機械の進化は生物の進化と類似点があると考えます。生物は遺伝子の組み合わせを変えることで変異して進化するというダーウィンの進化論がありますが、機械の進化もテクノロジーの変異により起こるという点が似ていると思います。
当社グループではピボット開発の他にも外部との連携を促進する取り組みがあります。イノベーション共創を活性化させる場であるYokohama Hardtech Hub(YHH)では、現在9つのベンチャー企業と4つの社内プロジェクトを支援しています。米国においても、ゼロカーボン燃料の開発に取り組む複数のベンチャー企業に投資しています。また、2018年に設立したイノベーション推進研究所では、従来の発想を覆すような研究開発を進めています。一例として大学と連携して、核廃棄物をより安全なものに変換するための方法について調査・研究を行っています。
先進技術領域のイノベーションを推進する上で、非常に重要なコンセプトがあります。それは「かしこく・つなぐ」です。大企業は知識と経験の宝庫です。当社グループには33の事業領域があり、その事業領域を700以上の基盤技術で支えて、500を超える製品を提供しています。基盤技術の組み合わせは、ほぼ無限にありますが、私たちのリソースは無限ではありません。アジャイルな開発を追求するだけでなく、課題設定の対象を厳選する必要があるのです。「かしこく・つなぐ」プロセスには、研究者やエンジニアだけでなく、法律や知的財産の専門家も巻き込む必要がありますが、何より顧客の視点が非常に大切です。一例を挙げると、当社グループの小型CO2回収システムがあります。従来は用途ごとに設備の仕様を設計・調整・変更してきましたが、顧客の意見をヒントに標準化した汎用性の高いモジュール式の小型CO2回収システムが生まれました。モジュール化したことで、顧客の現場での設置に数か月要していたのが、わずか2日で可能となりました。
機械を「かしこく・つなぐ」
さらに言うと、企業内の事業単位やメーカーとサプライヤーといった外部パートナー、顧客との連携だけでも十分とは言えません。将来の先進技術領域においては機械とシステム間の高度な連携が求められます。当社グループは主にハードウェアで知られていますが、その頭脳である安全かつフェイルセーフなオペレーティングシステムや制御システムの設計と構築を得意としています。機械とこうしたシステムを「かしこく・つなぐ」ことで初めて「スマートマシン」になるのです。一例として、当社グループが取り組むスマート化コンセプト「∑SynX(シグマシンクス)」があり、物流知能化を手始めに実証を始めています。
スマートマシンは「無駄と言えるほどたくさんのセンサーを取り付けた4IR(第4次産業革命)の機器」よりも洗練されたシステムだと考えています。機械とシステムを「かしこく・つなぐ」ことで、多様な産業バリューチェーン間をつないだエコシステムを構築することが可能で、より多様な用途や目的に展開することもできるのです。現時点で最も重要な目的は、脱炭素、つまりカーボンニュートラルの実現と言えるでしょう。
私たちは、イノベーションの先に明るい未来があると期待しがちですが、イノベーションや環境負荷の低減を追求する際には、エネルギー安全保障や経済効率、安全性などとのバランスに注意するなど、常に現実的でなければなりません。顧客、そして最終的には一般消費者に受け入れられるかが問われるからです。
当社グループには、この複雑なイノベーション推進の取り組みを実行に移せる機会があります。これまで蓄積してきた社会的信頼という有り難い資産もあります。こうした機会や資産を上手く活用して、安全・安心を前提とした先進技術による豊かな生活を社会に示していきたいと思います。